ソビエトの国家設計家ポルシェ

ソビエト側は手厚く彼をもてなし、手紙の約束どおり何一つ隠そうとしなかったのです。


「科学技術に国境はない」という言葉はやがて死語になるわけですが・・・


当時ポルシェにとっていかなる国境もなかったのです。


いつも中古車情報をチェックしているような車好きの人なら、きっと彼のこのような性格による逸話もご存知でしょう。


キエフ、クルスク、ニジニノヴゴロド、オデッサと旅を重ね、彼は自動車工場、鋳造所、タービン、戦車、トラクター、航空機の工場を視察しました。


ロシア特有の豪華な宴会が毎日続きました。


ふと彼がウォッカは好きでないと言うと、翌日は彼の口にあったピルゼン・ビールが食卓にならんでいます。


空輸以外には考えられないのです。


ポルシェはその歓待ぶりに薄気味悪くなり、視察した各種の工場施設にも驚嘆しました。


しかしかなり長期間にわたったソビエト旅行中にも、ポルシェは彼らの真意がつかめず、いらいらしました。


やがてある工場でスターリンの大演説の抜粋が横断幕に書かれていましたが、それを翻訳してもらってはたと気がつきます。


好奇心の旺盛な人

ポルシェはおそらく農業用トラクターの特許でも買いに来たのだろうと考えましたが、2人の技術者は全く興味を示さず、話はなかなか本題に入らなかったのです。


おそらくポルシェやスタッフの人物の品定めを行っていたのでしょう・・・。


3回目の会見でようやく、彼らはソビエト政府からの公式文書をポルシェに手渡しました。


「我が政府は、貴殿に我国の国家再建の時期がはじまったことをお見せしたいと思います。


技術的進歩、動力化及び電気設備の充実が新生ソビエトの力により進められています。


無限の国土と無尽蔵の資源を持った我国の可能性を貴殿の目で判断していただきたいのです・・・。」


自動車開発や中古車情報検索システムを開発するような傑出した技術者であるからには、好奇心が旺盛でなくてはなりません。


ポルシェは大いに食指を動かし、よろこんでソビエト政府の招待を受けることにして、3週間後にソビエト旅行に出かけました。

ポルシェのソビエト紀行

中古車検索サイトなどでも根強い人気を誇っている高級車ポルシェ。


そのポルシェに政治力や巧みな外交術を求めるのはどだい無理というものでした。


DB社の取締役会は技術者同士のきしみを心配して、ポルシェを体のよい棚上げ状態に置こうとしましたが、彼自身はおめおめとそこに留まるつもりはなかったのです。


オーストリアのシュタイア社に一時移籍した後、独立してシュツットガルトにポルシェ設計事務所を発足させたのが1930年12月1日のことでした。


ポルシェの名声のため、設計の依頼は絶えなかったのですが、経営は"火の車"の状態が続きました。


そして1932年のはじめのある日、シュツットガルト市クロネン街14番地の彼の設計事務所に、正体不明の男から電話がかかってきました。


強いロシア誰りのドイツ語で、ぜひともポルシェ博士に会いたいといいます。


明らかにソビエトの技術者で、話してみると自動車界のことにもかなり詳しいです。

ポルシェ博士のはなし

1920年代の自動車も、前記のオリンピックの標語どおり「より速く、より(性能が)高く、より(エンジンなどが)力強く」あることが追求されました。


そのための自動車技術の進歩発展に大きな力を発揮した1人が、フェルディナント・ポルシェ博士です。


19212年にダイムラー社に技術担当重役として入社したポルシェは様々な業績を残しましたが州中でもスーパーチャージャー(過給機)つきのスポーツ・タイプ、Sシリーズの開発(20年代後半)は傑出しています。


また倒立V12型航空エンジンの設計も注目すべき業績で、後にDB600型として完成します(1937年)。


しかし中古車情報でも人気の高いダイムラー・ベンツ(DB。1926年両社は合併する)社でのポルシェの立場は、必らずしも安定したものではなかったのです。


彼の歯に衣着せない発言も最大の原因だったでしょうが、元来DB社には超一流の技術者が掃いて捨てるほどいました。


優秀な技術者は当然のことながら、いつの場合も極端な個人主義者です。


そうした一癖もニ癖もある人物の集団を統率して行くことは容易なことではありません。

戦争と自動車

西欧文明の底流の一つに力への信仰があります。


決闘裁判(決闘の勝者を正しいと認める)の昔から、力は正義であり続けました。


第一次大戦は、そのことを明瞭な形で再認識させました。


中古車情報などでも人気の高いイタリアやドイツといった独裁国家では、その信仰がさらに明確な形で一つの教義と化しました。


今日まで続くオリンピックのスローガン「より速く、より高く、より力強く」は、1926年からIOC(国際オリンピック委員会)により採択されたものですが・・・


その言葉は単にスポーツのみでなく、実は第一次大戦後のヨーロッパの精神的風土をそっくり言い表わしています。


戦争において、力は唯一の切札です。


人々は高い代償を払ってそのことをはっきりと学んでいます。


個人においても国家においても、力だけがすべてを決定すると短絡的に決めこむことは容易であり、その傾向はことに後進国のイタリア、ドイツ。


そしてソビエトではより顕著でした。


ノイバウアーの"名演技"

フォン・ブラウヒッチュ(同名のドイツ陸軍最高司令官の甥)とルーディ・カラッチオラは一度だけ制服をあつらえました。


いざ着ようとすると、メルセデス・ベンツ・チームの名物監督アルフレート・ノイバウアーがあまりにも巧みにからかって周囲の人々を笑わせたため、2人ともそんな目にあうくらいなら永久に制服など着るものかと決心しました。


あるときヒトラーは、例の大演説の中でこう言いました。


「怖れを知らないレーシング・ドライバーたちはスポーツを愛するためでなく、ドイツの名誉のためにその生命を危険にさらしているのだ」。


これまた彼の大きな勘違いの好例です。


ドライバーたちは、スポーツを愛する国際人であり自由人でした。


ノイバウアーは、ドライバーたちと酒をのむと、"直属上官"であるヒューンラインのもったいぶったしぐさをみごとに真似して見せたそうです。


中古車情報をチェックするくらい車好きの人なら、彼の名前はきっと聞いたことがあるはずです。


やんやの喝采に気をよくした彼はさらにアルコールのいきおいで、今度はドイツ国民に向けて一大演説をぶつヒトラーの真似まではじめました。


ドライバーのなかには床をころげまわって笑いが止らないものもいました。


独裁者とモーター・スポーツとは、本質的に相いれないものだったのかもしれません。


ヒューンラインとドライバーたち

「総統閣下、小官はつつしんでドイツ車がまたしてもレースを制圧し、ドイツのレーシングカーのデザインならびに構造が世界に冠たる事実を示しましたことを御報告いたします」。


・・・当時のヨーロッパの主要レースが終るたび、モーター・スポーツの担当官コルプス・フューラー、アドルフ・ヒューンラインはこの電文を総統官邸あてに送りました。


1936年に入ると、中古車の検索でも人気の高いドイツ車以外がメイン・レースに勝つことは皆無といってよかったからです。


もと陸軍少佐のヒューンラインは、昔からのヒトラーの友人で、23年11月8日の失敗に終ったミュンヘン一擾に加わり、電話局の占領を命ぜられたものの、まごまごしているうちに逮捕されてしまったという人物です。


彼はモータースポーツの統轄のほか、ナチ党のお歴々のクルマのオートバイ護衛隊の管理、手配の任務も与えられていました。


レーシング・ドライバーたちをやかましく管理したがるヒューンラインでしたが、彼らもまた一筋縄ではいかなかったのです。


ドイツ人ドライバーたちはすべて士官待遇であり、制服好きなドイツ人のことだから、公の席ではそれを着用するよう命ぜられていました。


ところがドライバーたちは一度も制服を着用しなかったのです。


持っていなかったからです。

イタリア国歌のレコード

ヌヴォラーリがゴールラインを切ったとき、放心したような深い沈黙が彼を迎えました。


ドイツ人観客は、あまりといえばあまりの逆転劇に自らの目を疑いました。


拍手どころではなかったのです。


困惑したのは観客だけではなかったのです。


レースの役員は中古車情報でも人気の高いドイツ車以外が勝つことなど考えてもいなかったので、ヌヴォラーリの表彰式のとき、スピーカーで流す国歌・・・


この場合イタリア国歌ですが、このレコードを用意してなかったのです。


しばらくスピーカーは沈黙を続けましたが、この気づまりな場を救ったのは、当のヌヴォラーリでした。


彼は縁起をかついで(レーサーには多いですよね)、いつもイタリア国歌のレコードを手提鞄の中に入れており、やおらそれを取り出すと、あわてふためく役員に差し出しました。


国歌が流れて無事に表彰式は終わりました。


それまで沈黙していた大観衆も、夢から醒めたようにこの小男のイタリア人に拍手を送り、祝福の歓声をあげました。


ヌヴォラーリはドイツ人にも人気があり、信ぜられない逆転劇のヒーローは、いつの時代でも常に大衆のアイドルでした。


赤いアルファ・ロメオ

トップのフォン・ブラウヒッチュ(MB)との差は1分以上ある、と誰しもが安心していたのですが・・・


ヌヴォラーリは次々とラップ記録を更新し、最終の22ラップは35秒差で入りました。


観客はドイツの勝利を確信しました。


35秒の差は決定的だからです。


しかし最後のドンデン返しがこのラップに待っていました。


フォン・ブラウヒッチュは技術にもすぐれた速いドライバーでしたが、その走りぶりはやや荒っぽく、タイヤに負担をかけすぎるきらいがありました。


このときもリアタイアがかなり痛んでいましたが交換の余裕はありません。


さらに追われるもののあせりも加わって、彼の運転の慎重さを失わせました。


コース半ばでリアタイアがバーストし、ブラウヒッチュは赤いアルファ・ロメオがゴールラインに向かうのを荘然と見送るほかなかったのです。


ちなみにこの赤いアルファ・ロメオは、わたしがよくチェックしている中古車情報サイトでも人気が高いです。


派手でかっこいいですよね。


35年ドイツ・グランプリ

1930年代半ばになると、ドイツGPの行われるアイフェル山中のレース・サーキット、ニュルブルク・リンクには50万人近い観客が集まることもありました。


おそらく規律のきびしさに馴れたドイツ人以外の民族では、収拾のつかない混乱は避けられなかったに違いありません。


・・・それは中古車情報でも人気の高いドイツ車がドイツの地で勝利するのを見ようとする国民的祝祭であり、最上のサーカスでした。


しかし35年7月に行われたドイツGPで、ヌヴォラーリは超絶的なドライビングを披露します。


彼には、ニュルブルク・リンクのカーブの多さと高低差が幸いしました。


このコースには左カーブ89カ所、右カーブ85カ所、そして最高地点はピット・エリアの海抜620メートル、最低地点はブライトシャイトの320メートル。


・・・つまり300メートルの高低差がありました。


序盤はヌヴォラーリのトップで終わりましたが、ピット・ストップで燃料補給に手間どって6位に後退した彼が、アウトウニオン1台、MB車3台を抜き去って2位に浮上するのにあまり時間はかからなかったのです。