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中古車情報 アーカイブ

はじめまして。

今日からブログを始めました!


日々感じたことや、好きな自動車の話や中古車情報などを紹介していきたいと思っています。


出来るだけたくさん更新したいと思っていますので、ぜひ見に来てくださいね。


では最初に・・・


まずはドイツの自動車政策についての話からしましょう。


ヒトラーは力による共産党などの弾圧政策と並行してドイツ国民への懐柔策にも力を入れざるを得なかったのです。


古代ローマの民衆統治の基本は、"パンとサーカス"に集約されていました。


民衆をひもじくさせずにおき、サーカスによってエンターテインメントを与え、不満の芽を早いうちにつみ取ってしまうことが最大の目的でした。


ちなみにサーカスとは円形競技場のことです。


今も残るコロセウムでは、闘劔士、闘獣士、そしてチャリオットによるスピードレースなどが定期的に開催されていました。


そして近代の独裁者は、フランス革命以来の"自由、平等、博愛"の考えにすこしでも触れてしまった各国国民大衆への懐柔政策を織りまぜることが、どうしても避けられないものとなります。


そしてその姿勢が、独裁者たちの自動車レースを含む自動車政策(ことにドイツのVWビートル計画)に反映されることになります。


"イタリアのためにレースに勝て!"

20世紀を代表するもう一人の独裁者・・・


イタリアのファシスト党をひきいるベニト・ムッソリーニも、自動車レースのサーカスとしての効用をよくわきまえていました。


北イタリアを舞台としたミッレ・ミリア(1000マイル)レース(1923~57年)は、うっかりするとイタリアの社会の機能の半分を麻痺させるおそれさえありましたが、あえてゴーサインを出したのもムッソリーニでした。


サーカスとしては絶好なイベントです。


1920年代半ばからアルファ・ロメオ社はモーター・レーシングに傑出した成績をあげましたが、経営状態は必ずしもよくなかったのです。


このため30年からは国が援助を与え、33年には完全に国営化されました。


2つの大戦の間の時期、モーターレーシングはしだいに国の威信をかけたイベントとしての性格が強まっていきました。


中古車情報サイトでも根強い人気のあるアルファ・ロメオは、イタリアを代表するメーカーとして、新興のファシスト国家の力と名誉を代表する存在と見なされたのです。


ムッソリーニは、重要なレースの前には"イタリアのためにレースに勝て!"という電報をアルファロメオ・チーム(エンツォ・フェラーリ監督)に送るのを常としていました。


750㎏フォーミュラ

"イタリアの名誉"は少なくとも1933年までは小ゆるぎもしませんでした。


しかし33年に政権についたヒトラーは、ムッソリーニの成功を指をくわえて見ているつもりはありませんでした。


そして彼が目をつけたのは、34年から施行されるGPレースの、いわゆる"750㎏フォーミュラ"(車体重量の上限が750㎏)でした。


ヒトラーの要請に応え、ダイムラー・ベンツ(DB)とアウトウニオンの両社は、画期的な技術内容をもったGPマシンの開発にとりかかったのです。


DB社のW25型のエンジンはDOHC直列8気筒、3.36リットル、過給機つきで300馬力を発生しました(後に3.99リットル、430馬力)。


ギアボックスはデフ(デファレンシャル。差動装置)と一体化して後車軸にとりつけられ(トランス・アクスル方式)、全輪独立懸架と、当時のいかなるGPマシンよりも進歩した内容をもっていました。


・・・いっぽうフェルディナント・ポルシェ博士の設計になるアウトウニオンPワーゲンはさらにざん新な内容をもっていました。


いつも中古車情報などをチェックしている人ならきっとこの話はご存知でしょうね。


史上最高のドライバー

エンジンは、SOHC、V型16気筒、4.36リットル、過給機つきで295馬力を発生しました(後に6リットル、520馬力)。


さらにポルシェは後のVWで行ったようにこのエンジンをリアに置き、VWと同じトーションバー独立懸架を全輪に採用しました。


最高速はそれぞれ、時速282キロと290キロです。


これはまだ中古車の情報なども満足に手に入れられなかった時代の話です。


750㎏フォーミュラのはじまった34年には、アルファ・ロメオにもまだチャンスはありましたが、36年ごろになるとドイツの両チームには全く歯がたたなくなりました。


フェラーリがフィアット社から引き抜いた(23年)優秀な技術者ヴィットリオ・ヤーノ設計のタイプBモノポスト(単座、31年)は、GPカーの典型として数多くの勝利をアルファ・ロメオにもたらしましたが・・・


34年以降、性能的にはドイツ勢とは格段の差があったのです(出力180馬力、最高速225キロ)。


しかしその劣勢なマシンを駆って、勝ち誇るドイツチームに一泡吹かせた男がいます。


史上最高のドライバーと言われるイタリア人タツィオ・ヌヴォラーリです。


35年ドイツ・グランプリ

1930年代半ばになると、ドイツGPの行われるアイフェル山中のレース・サーキット、ニュルブルク・リンクには50万人近い観客が集まることもありました。


おそらく規律のきびしさに馴れたドイツ人以外の民族では、収拾のつかない混乱は避けられなかったに違いありません。


・・・それは中古車情報でも人気の高いドイツ車がドイツの地で勝利するのを見ようとする国民的祝祭であり、最上のサーカスでした。


しかし35年7月に行われたドイツGPで、ヌヴォラーリは超絶的なドライビングを披露します。


彼には、ニュルブルク・リンクのカーブの多さと高低差が幸いしました。


このコースには左カーブ89カ所、右カーブ85カ所、そして最高地点はピット・エリアの海抜620メートル、最低地点はブライトシャイトの320メートル。


・・・つまり300メートルの高低差がありました。


序盤はヌヴォラーリのトップで終わりましたが、ピット・ストップで燃料補給に手間どって6位に後退した彼が、アウトウニオン1台、MB車3台を抜き去って2位に浮上するのにあまり時間はかからなかったのです。

赤いアルファ・ロメオ

トップのフォン・ブラウヒッチュ(MB)との差は1分以上ある、と誰しもが安心していたのですが・・・


ヌヴォラーリは次々とラップ記録を更新し、最終の22ラップは35秒差で入りました。


観客はドイツの勝利を確信しました。


35秒の差は決定的だからです。


しかし最後のドンデン返しがこのラップに待っていました。


フォン・ブラウヒッチュは技術にもすぐれた速いドライバーでしたが、その走りぶりはやや荒っぽく、タイヤに負担をかけすぎるきらいがありました。


このときもリアタイアがかなり痛んでいましたが交換の余裕はありません。


さらに追われるもののあせりも加わって、彼の運転の慎重さを失わせました。


コース半ばでリアタイアがバーストし、ブラウヒッチュは赤いアルファ・ロメオがゴールラインに向かうのを荘然と見送るほかなかったのです。


ちなみにこの赤いアルファ・ロメオは、わたしがよくチェックしている中古車情報サイトでも人気が高いです。


派手でかっこいいですよね。


イタリア国歌のレコード

ヌヴォラーリがゴールラインを切ったとき、放心したような深い沈黙が彼を迎えました。


ドイツ人観客は、あまりといえばあまりの逆転劇に自らの目を疑いました。


拍手どころではなかったのです。


困惑したのは観客だけではなかったのです。


レースの役員は中古車情報でも人気の高いドイツ車以外が勝つことなど考えてもいなかったので、ヌヴォラーリの表彰式のとき、スピーカーで流す国歌・・・


この場合イタリア国歌ですが、このレコードを用意してなかったのです。


しばらくスピーカーは沈黙を続けましたが、この気づまりな場を救ったのは、当のヌヴォラーリでした。


彼は縁起をかついで(レーサーには多いですよね)、いつもイタリア国歌のレコードを手提鞄の中に入れており、やおらそれを取り出すと、あわてふためく役員に差し出しました。


国歌が流れて無事に表彰式は終わりました。


それまで沈黙していた大観衆も、夢から醒めたようにこの小男のイタリア人に拍手を送り、祝福の歓声をあげました。


ヌヴォラーリはドイツ人にも人気があり、信ぜられない逆転劇のヒーローは、いつの時代でも常に大衆のアイドルでした。


ヒューンラインとドライバーたち

「総統閣下、小官はつつしんでドイツ車がまたしてもレースを制圧し、ドイツのレーシングカーのデザインならびに構造が世界に冠たる事実を示しましたことを御報告いたします」。


・・・当時のヨーロッパの主要レースが終るたび、モーター・スポーツの担当官コルプス・フューラー、アドルフ・ヒューンラインはこの電文を総統官邸あてに送りました。


1936年に入ると、中古車の検索でも人気の高いドイツ車以外がメイン・レースに勝つことは皆無といってよかったからです。


もと陸軍少佐のヒューンラインは、昔からのヒトラーの友人で、23年11月8日の失敗に終ったミュンヘン一擾に加わり、電話局の占領を命ぜられたものの、まごまごしているうちに逮捕されてしまったという人物です。


彼はモータースポーツの統轄のほか、ナチ党のお歴々のクルマのオートバイ護衛隊の管理、手配の任務も与えられていました。


レーシング・ドライバーたちをやかましく管理したがるヒューンラインでしたが、彼らもまた一筋縄ではいかなかったのです。


ドイツ人ドライバーたちはすべて士官待遇であり、制服好きなドイツ人のことだから、公の席ではそれを着用するよう命ぜられていました。


ところがドライバーたちは一度も制服を着用しなかったのです。


持っていなかったからです。

ノイバウアーの"名演技"

フォン・ブラウヒッチュ(同名のドイツ陸軍最高司令官の甥)とルーディ・カラッチオラは一度だけ制服をあつらえました。


いざ着ようとすると、メルセデス・ベンツ・チームの名物監督アルフレート・ノイバウアーがあまりにも巧みにからかって周囲の人々を笑わせたため、2人ともそんな目にあうくらいなら永久に制服など着るものかと決心しました。


あるときヒトラーは、例の大演説の中でこう言いました。


「怖れを知らないレーシング・ドライバーたちはスポーツを愛するためでなく、ドイツの名誉のためにその生命を危険にさらしているのだ」。


これまた彼の大きな勘違いの好例です。


ドライバーたちは、スポーツを愛する国際人であり自由人でした。


ノイバウアーは、ドライバーたちと酒をのむと、"直属上官"であるヒューンラインのもったいぶったしぐさをみごとに真似して見せたそうです。


中古車情報をチェックするくらい車好きの人なら、彼の名前はきっと聞いたことがあるはずです。


やんやの喝采に気をよくした彼はさらにアルコールのいきおいで、今度はドイツ国民に向けて一大演説をぶつヒトラーの真似まではじめました。


ドライバーのなかには床をころげまわって笑いが止らないものもいました。


独裁者とモーター・スポーツとは、本質的に相いれないものだったのかもしれません。


戦争と自動車

西欧文明の底流の一つに力への信仰があります。


決闘裁判(決闘の勝者を正しいと認める)の昔から、力は正義であり続けました。


第一次大戦は、そのことを明瞭な形で再認識させました。


中古車情報などでも人気の高いイタリアやドイツといった独裁国家では、その信仰がさらに明確な形で一つの教義と化しました。


今日まで続くオリンピックのスローガン「より速く、より高く、より力強く」は、1926年からIOC(国際オリンピック委員会)により採択されたものですが・・・


その言葉は単にスポーツのみでなく、実は第一次大戦後のヨーロッパの精神的風土をそっくり言い表わしています。


戦争において、力は唯一の切札です。


人々は高い代償を払ってそのことをはっきりと学んでいます。


個人においても国家においても、力だけがすべてを決定すると短絡的に決めこむことは容易であり、その傾向はことに後進国のイタリア、ドイツ。


そしてソビエトではより顕著でした。


ポルシェ博士のはなし

1920年代の自動車も、前記のオリンピックの標語どおり「より速く、より(性能が)高く、より(エンジンなどが)力強く」あることが追求されました。


そのための自動車技術の進歩発展に大きな力を発揮した1人が、フェルディナント・ポルシェ博士です。


19212年にダイムラー社に技術担当重役として入社したポルシェは様々な業績を残しましたが州中でもスーパーチャージャー(過給機)つきのスポーツ・タイプ、Sシリーズの開発(20年代後半)は傑出しています。


また倒立V12型航空エンジンの設計も注目すべき業績で、後にDB600型として完成します(1937年)。


しかし中古車情報でも人気の高いダイムラー・ベンツ(DB。1926年両社は合併する)社でのポルシェの立場は、必らずしも安定したものではなかったのです。


彼の歯に衣着せない発言も最大の原因だったでしょうが、元来DB社には超一流の技術者が掃いて捨てるほどいました。


優秀な技術者は当然のことながら、いつの場合も極端な個人主義者です。


そうした一癖もニ癖もある人物の集団を統率して行くことは容易なことではありません。

ポルシェのソビエト紀行

中古車検索サイトなどでも根強い人気を誇っている高級車ポルシェ。


そのポルシェに政治力や巧みな外交術を求めるのはどだい無理というものでした。


DB社の取締役会は技術者同士のきしみを心配して、ポルシェを体のよい棚上げ状態に置こうとしましたが、彼自身はおめおめとそこに留まるつもりはなかったのです。


オーストリアのシュタイア社に一時移籍した後、独立してシュツットガルトにポルシェ設計事務所を発足させたのが1930年12月1日のことでした。


ポルシェの名声のため、設計の依頼は絶えなかったのですが、経営は"火の車"の状態が続きました。


そして1932年のはじめのある日、シュツットガルト市クロネン街14番地の彼の設計事務所に、正体不明の男から電話がかかってきました。


強いロシア誰りのドイツ語で、ぜひともポルシェ博士に会いたいといいます。


明らかにソビエトの技術者で、話してみると自動車界のことにもかなり詳しいです。

好奇心の旺盛な人

ポルシェはおそらく農業用トラクターの特許でも買いに来たのだろうと考えましたが、2人の技術者は全く興味を示さず、話はなかなか本題に入らなかったのです。


おそらくポルシェやスタッフの人物の品定めを行っていたのでしょう・・・。


3回目の会見でようやく、彼らはソビエト政府からの公式文書をポルシェに手渡しました。


「我が政府は、貴殿に我国の国家再建の時期がはじまったことをお見せしたいと思います。


技術的進歩、動力化及び電気設備の充実が新生ソビエトの力により進められています。


無限の国土と無尽蔵の資源を持った我国の可能性を貴殿の目で判断していただきたいのです・・・。」


自動車開発や中古車情報検索システムを開発するような傑出した技術者であるからには、好奇心が旺盛でなくてはなりません。


ポルシェは大いに食指を動かし、よろこんでソビエト政府の招待を受けることにして、3週間後にソビエト旅行に出かけました。

ソビエトの国家設計家ポルシェ

ソビエト側は手厚く彼をもてなし、手紙の約束どおり何一つ隠そうとしなかったのです。


「科学技術に国境はない」という言葉はやがて死語になるわけですが・・・


当時ポルシェにとっていかなる国境もなかったのです。


いつも中古車情報をチェックしているような車好きの人なら、きっと彼のこのような性格による逸話もご存知でしょう。


キエフ、クルスク、ニジニノヴゴロド、オデッサと旅を重ね、彼は自動車工場、鋳造所、タービン、戦車、トラクター、航空機の工場を視察しました。


ロシア特有の豪華な宴会が毎日続きました。


ふと彼がウォッカは好きでないと言うと、翌日は彼の口にあったピルゼン・ビールが食卓にならんでいます。


空輸以外には考えられないのです。


ポルシェはその歓待ぶりに薄気味悪くなり、視察した各種の工場施設にも驚嘆しました。


しかしかなり長期間にわたったソビエト旅行中にも、ポルシェは彼らの真意がつかめず、いらいらしました。


やがてある工場でスターリンの大演説の抜粋が横断幕に書かれていましたが、それを翻訳してもらってはたと気がつきます。


"ポルシェが欲しい!"

「ソビエトは工業技術をマスターするすべを学ばなくてはならない。


それは国家再建の現在、あらゆるものを決定するからだ・・・


我々は100年も遅れている。


だが西欧の水準に10年で追いつかなければならない。


それが達成できないとき、それは我国の破滅を意味している・・・」


スターリンがポルシェに求めているのは(このとき両者が会見したかどうか記録は伝えていません)、まさに遅れた技術水準をいっきょに引き上げるため原動力として、最高のブレーンとして働いてもらうことでした。


当時はマツダ 中古車なんてない時代です。


ポルシェは人気のでるような自動車ばかりでなく、技術のあらゆる面に通暁していました。


そしてスターリンをも含めて、2つの大戦のはざまの時代、独裁者はもとより国家の指導者たちは、テクノロジーを不可能を可能としてくれる"魔法の杖"と考えたがったのです。


スターリンとしてはポルシェその人が欲しかったのです。


その強烈なパーソナリティと傑出した技術力が欲しかったのです。

当時の乗用車工業

ポルシェがもしその申し出を受諾すれば、直ちに"ソ連邦国家設計家"の称号が与えられ、何か一つの仕事をするたびに彼の望みのままの報酬(白紙の小切手帳が与えられる予定だった)を受けとれることになっていました。


火の車のポルシェ設計事務所としては、ソビエトからの提案はまさにのどから手が出るくらい、願ってもない好条件でした。


・・・しかしポルシェは冷静に状況判断を行いました。


たしかにソビエトの工場建設は急ピッチで進められていましたが、かんじんの自動車工業は当時全く幼稚な段階にありました。


彼の腕を振う余地はなかったのです。


そのころ乗用車工業は、一国の総合的な工業力の指標として重要な意味をもつようになっていました。


しかしソビエトも当時の日本と同じく、軍事技術に過大に傾斜した産業構造をとっていましたが(航空機、軍艦、戦車、火砲が中心)、近代的工業国家としてのバランスのとれた成熟度は低かったのです。


もちろん中古車の数も少なかったのです。

合理化の連携


圧力は機械のすぐれたメンテナンスと結びつくとともに、部品納入業者との関係やラインの作業慣行にも反映します。


そして、部品メーカーは一貫して品質の高水準維持に努めるでしょう。


ライン自動停止装置をもつ現場の作業員は、徹底した無駄の排除と欠陥や問題の発見に努めることにならざるをえないのです。


同時にこのシステムは、幅広くかつ深い(計画や管理への参加が強い)日本的な職務構造や、欠勤率の少ない忠誠心の強い従業員の参加と結合することが絶対に必要です。


ジャスト・イン・タイム方式は、生産計画と生産管理を連結した管理慣行の運用を特定の専門家集団だけに委ねたりせず・・・


現場の全員参加の形で実現したところに大きな意義があります。


そしてこの方式はマツダ 中古車などの自動車メーカーがまずその範を示すことによって、その影響が部品メーカーに及ぶという連鎖反応を生む点でも大きな特色を有しています。


部品メーカー自身の意識革命と自動車メーカー、部品メーカー一体となった文字通り一糸乱れぬ合理化の連携が実現するのです。

自動車メーカーの競争的共存

日本的合理化のこの方式によって実現された工程作り込み生産性・・・


これは、アメリカの自動車メーカーにおいて常識となっていた観がある生産性"コストと品質のトレード・オフという神話を打破しました。


こうして、高品質を工程で作り込むことによる品質と生産性の一体となった向上をもたらしたのです。


そしてさらにもう一つ重要なポイントは、このような日本的合理化がすべての日本の自動車メーカーに浸透したことによって、少ない設備の最有効稼動が実現。


その結果、中古車情報の増加、そして自動車生産におけるスケール・メリットの分岐点が引下げられる効果が生まれたことです。


日本における自動車メーカーの競争的共存はこのスケール・メリットの分岐点の引下げと無関係ではないと思われます。


さらにまたこの日本的合理化は生産工程における生産体制に多くの柔軟性を持ちこみ、設計変更や新技術の導入に対して、メンテナンスやプレスの型交換のスピード・アップ・・・


そして、工程のレイアウトなどの変更によって敏速に対応する条件をつくり出したのです。


日本の比較優位を脅かす要因


日本自動車産業が部品工業と一体となって築きあげた生産工程におけるマネジメントの成功による比較優位は、現在の生産規模が維持されていく限りは、少々のことでは失われそうにありません。


・・・しかし、この比較優位も絶対的なものとはかならずしも断定できないのです。


つまり日本の自動車産業は、ミクロのレベルではいままさに圧倒的な優位を誇ってはいますが・・・


マツダ 中古車などの中古車市場も含め、すべての市場環境というマクロ・レベルの将来展望における不透明という制約要因に直面しているのです。


今日までの日本の自動車産業の成長は市場環境的にみれば極めて恵まれた環境によって達成されたとみることができます。


1973年の第一次石油危機までは国内市場のモータリゼーションの急伸に支えられた拡大によって年産700万台水準を達成し、石油危機の直後2年間の減産を体験したとはいえ・・・


それ以降は国内市場が成熟化したにもかかわらずとくにアメリカ市場の小型車志向の強まりに影響された海外市場の好調によって、世界一の生産台数200万台を達成しました。

新しい市場の開拓


市場環境的にみて日本の自動車産業は、世界で最も後発でありながら、むしろ後発なるがゆえに極めて好運に恵まれてきました。


そして1981年の対米自動車輸出自主規制以降3~5%程度の減産が実施されているのに・・・


為替レートの対ドル円安のために、輸出台数の減少が収益面でカバーされたという好運までも重なったのです。


しかし、この対米自主規制に象徴される自動車をめぐる貿易摩擦の顕在化は、総生産台数の50%以上を占める海外市場の今後の見通しを暗くしています。


欧州諸国との摩擦は為替レートの関係もあって日本車のシェアが低下したためにいちおうおさまってはいますが・・・


これとていつ再燃するか分らないのです。


対米自主規制以降、日本の各自動車メーカーは、中古車の情報も増えてきている中近東、アフリカ、東南アジア、ラテン・アメリカなどでこれまで以上の新市場開拓に努めてきています。


しかし、石油需給の安定による産油国の支払能力低下、各種のカントリー・リスク・・・


そして、国産化計画に伴う輸出上の制約といった多くの難問にはばまれて実績ははかばかしくないのです。

マツダの中古車は人気がある

完成車やマツダ 中古車輸出による拡大だけでは無理ということで、とくに米メーカーとの提携を実施しているメーカーを中心にコンポーネントの供給体制が強化されています。


これについてもGM、フォードなどのワールド・カー構想の変化や、一定の比率での部品の国内調達を義務づけるローカル・コンテント法案がどうなるかによって、多くの不確定要因がからまっています。


このローカル・コンテント法案はコンポーネント供給メーカーのみならず、完成車の輸出メーカーにも適用されるものです。


その内容と帰趨いかんは日本自動車メーカーの海外戦略に重大な影響を与えます。


海外の自動車市場における日本の自動車輸出をめぐって日本の自動車メーカーが最も警戒していたのは、最大の市場アメリカについては当面このローカル・コンテント法案の成立です。


そして、もう一つはデトロイトの再生が軌道に乗らない場合の対米輸出自主規制の延長問題でした。


デトロイト再生の可能性についてはいろいろな憶測がありますが・・・


最も楽観的な『フォーチュン』誌でさえ、デトロイトが必死で取組んでも、生産性で3分の2のギャップを埋めるのに5年かかるとみていました。

欧州における日本車が占めるシェア

近年では、アメリカ自動車市場の回復とデトロイトの業績回復にメドがついてきています。


しかし、それでもデトロイトが自主規制の延長問題を持ち出したのは生産性のギャップが完全にうまらないとみているからです。


この自主規制の延長が行われた場合に、その輸出枠の配分如何で、最も打撃を受けるのは、対米輸出をおくれてスタートさせた下位メーカーであり・・・


成行きいかんでは世界的な再編成問題にも影響しかねないのです。


海外進出でおくれをとっているトヨタがGMとの提携に積極的に乗りだしたのもこのような情勢と無関係ではありません。


さらに目を欧州に転ずる時、中古車の検索が活発な日本の自動車メーカーが恐れるもう一つの事態は、自動車をめぐる保護主義"管理貿易的傾向が強まる中で、その帰結として登場してくる世界市場の一種の分割協定閣シェア固定論が台頭することです。


現在、欧州で日本車の占めるシェアは、第二次石油危機以降急上昇したとはいえ欧州全体の数パーセントに過ぎないのです。

フランスの自動車産業界

欧州・・・


とくにフランスが問題にするのは、自国の民族系自動車メーカーが不振を極めかつ欧州市場が停滞している中で、日本車が急速にシェアを上昇させたこと。


とくに北欧、ベネルックス、さらに北アフリカなど欧州周辺の自分たちの市場圏と思っていたところに日本車が急激に入ってきて、日本車が増えた分だけ自分たちのシェアが減ったことです。


マツダ 中古車が人気のあるフランスはとくに日本車の国際競争力の急上昇に極めて警戒的です。


これに対抗するため、ECの自動車生産国が結束して提携関係や共同技術開発を強めるECの共通自動車産業政策を提唱しています。


この政策立案に当っているフランス産業省は、1990年代の世界自動車産業再編成のシナリオとして、自国の2社を含む7企業(GM、フォード、トヨタ、日産、VW、ルノー、プジョー)への集約の構図を描いているといわれます。


このフランスの描く世界自動車産業の将来図のグランド・デザインは、結局、有力自動車産業国による現状維持を前提とする世界自動車市場の分割協定けシェア固定論に落着かざるをえません。


ガット体制との兼ねあいの問題はありますが、EC内の他の諸国やデトロイトの反応いかんでは実質上そのような方向に向わないとも限らないのです。

中古車販売の上昇率

海外市場環境の見通しのむずかしさは保護主義的傾向の高まりとともに否定できない状況にあります。


対米自主規制のスタートとともに日本の自動車メーカーは国内の販売体制にいっせいにテコ入れを開始しました。


しかし国内の自動車市場は新車販売で1979年の515万台をピークに80年501万台、81年512万台と低迷が続き・・・


82年533万台、84年545万台と若干の上乗せはあるものの大きな増加は望めませんでした。


日本の国内自動車市場は成熟期に入っており、自動車の耐用期間、買替えサイクルともにほぼ先進国並みとなり、新車需要の8割近くは買替需要です。


今後需要の伸びが見込めるのは地方や大都市周辺における複数保有や女性ドライバーの需要などでしょう。


かつてのモータリゼーション上昇期とは違って、せいぜい年率2~3%の伸びが期待されるにすぎないのです。


現にこの4年間については、中古車情報や中古車販売が新車販売を上回るかほとんど同等であり、車種別にみて販売が伸びたのは軽自動車だけで、普通・小型トラック、乗用車は軒並み販売が頭打ちとなっています。


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