欧州における日本車が占めるシェア

近年では、アメリカ自動車市場の回復とデトロイトの業績回復にメドがついてきています。


しかし、それでもデトロイトが自主規制の延長問題を持ち出したのは生産性のギャップが完全にうまらないとみているからです。


この自主規制の延長が行われた場合に、その輸出枠の配分如何で、最も打撃を受けるのは、対米輸出をおくれてスタートさせた下位メーカーであり・・・


成行きいかんでは世界的な再編成問題にも影響しかねないのです。


海外進出でおくれをとっているトヨタがGMとの提携に積極的に乗りだしたのもこのような情勢と無関係ではありません。


さらに目を欧州に転ずる時、中古車の検索が活発な日本の自動車メーカーが恐れるもう一つの事態は、自動車をめぐる保護主義"管理貿易的傾向が強まる中で、その帰結として登場してくる世界市場の一種の分割協定閣シェア固定論が台頭することです。


現在、欧州で日本車の占めるシェアは、第二次石油危機以降急上昇したとはいえ欧州全体の数パーセントに過ぎないのです。

マツダの中古車は人気がある

完成車やマツダ 中古車輸出による拡大だけでは無理ということで、とくに米メーカーとの提携を実施しているメーカーを中心にコンポーネントの供給体制が強化されています。


これについてもGM、フォードなどのワールド・カー構想の変化や、一定の比率での部品の国内調達を義務づけるローカル・コンテント法案がどうなるかによって、多くの不確定要因がからまっています。


このローカル・コンテント法案はコンポーネント供給メーカーのみならず、完成車の輸出メーカーにも適用されるものです。


その内容と帰趨いかんは日本自動車メーカーの海外戦略に重大な影響を与えます。


海外の自動車市場における日本の自動車輸出をめぐって日本の自動車メーカーが最も警戒していたのは、最大の市場アメリカについては当面このローカル・コンテント法案の成立です。


そして、もう一つはデトロイトの再生が軌道に乗らない場合の対米輸出自主規制の延長問題でした。


デトロイト再生の可能性についてはいろいろな憶測がありますが・・・


最も楽観的な『フォーチュン』誌でさえ、デトロイトが必死で取組んでも、生産性で3分の2のギャップを埋めるのに5年かかるとみていました。

新しい市場の開拓


市場環境的にみて日本の自動車産業は、世界で最も後発でありながら、むしろ後発なるがゆえに極めて好運に恵まれてきました。


そして1981年の対米自動車輸出自主規制以降3~5%程度の減産が実施されているのに・・・


為替レートの対ドル円安のために、輸出台数の減少が収益面でカバーされたという好運までも重なったのです。


しかし、この対米自主規制に象徴される自動車をめぐる貿易摩擦の顕在化は、総生産台数の50%以上を占める海外市場の今後の見通しを暗くしています。


欧州諸国との摩擦は為替レートの関係もあって日本車のシェアが低下したためにいちおうおさまってはいますが・・・


これとていつ再燃するか分らないのです。


対米自主規制以降、日本の各自動車メーカーは、中古車の情報も増えてきている中近東、アフリカ、東南アジア、ラテン・アメリカなどでこれまで以上の新市場開拓に努めてきています。


しかし、石油需給の安定による産油国の支払能力低下、各種のカントリー・リスク・・・


そして、国産化計画に伴う輸出上の制約といった多くの難問にはばまれて実績ははかばかしくないのです。

日本の比較優位を脅かす要因


日本自動車産業が部品工業と一体となって築きあげた生産工程におけるマネジメントの成功による比較優位は、現在の生産規模が維持されていく限りは、少々のことでは失われそうにありません。


・・・しかし、この比較優位も絶対的なものとはかならずしも断定できないのです。


つまり日本の自動車産業は、ミクロのレベルではいままさに圧倒的な優位を誇ってはいますが・・・


マツダ 中古車などの中古車市場も含め、すべての市場環境というマクロ・レベルの将来展望における不透明という制約要因に直面しているのです。


今日までの日本の自動車産業の成長は市場環境的にみれば極めて恵まれた環境によって達成されたとみることができます。


1973年の第一次石油危機までは国内市場のモータリゼーションの急伸に支えられた拡大によって年産700万台水準を達成し、石油危機の直後2年間の減産を体験したとはいえ・・・


それ以降は国内市場が成熟化したにもかかわらずとくにアメリカ市場の小型車志向の強まりに影響された海外市場の好調によって、世界一の生産台数200万台を達成しました。

自動車メーカーの競争的共存

日本的合理化のこの方式によって実現された工程作り込み生産性・・・


これは、アメリカの自動車メーカーにおいて常識となっていた観がある生産性"コストと品質のトレード・オフという神話を打破しました。


こうして、高品質を工程で作り込むことによる品質と生産性の一体となった向上をもたらしたのです。


そしてさらにもう一つ重要なポイントは、このような日本的合理化がすべての日本の自動車メーカーに浸透したことによって、少ない設備の最有効稼動が実現。


その結果、中古車情報の増加、そして自動車生産におけるスケール・メリットの分岐点が引下げられる効果が生まれたことです。


日本における自動車メーカーの競争的共存はこのスケール・メリットの分岐点の引下げと無関係ではないと思われます。


さらにまたこの日本的合理化は生産工程における生産体制に多くの柔軟性を持ちこみ、設計変更や新技術の導入に対して、メンテナンスやプレスの型交換のスピード・アップ・・・


そして、工程のレイアウトなどの変更によって敏速に対応する条件をつくり出したのです。


合理化の連携


圧力は機械のすぐれたメンテナンスと結びつくとともに、部品納入業者との関係やラインの作業慣行にも反映します。


そして、部品メーカーは一貫して品質の高水準維持に努めるでしょう。


ライン自動停止装置をもつ現場の作業員は、徹底した無駄の排除と欠陥や問題の発見に努めることにならざるをえないのです。


同時にこのシステムは、幅広くかつ深い(計画や管理への参加が強い)日本的な職務構造や、欠勤率の少ない忠誠心の強い従業員の参加と結合することが絶対に必要です。


ジャスト・イン・タイム方式は、生産計画と生産管理を連結した管理慣行の運用を特定の専門家集団だけに委ねたりせず・・・


現場の全員参加の形で実現したところに大きな意義があります。


そしてこの方式はマツダ 中古車などの自動車メーカーがまずその範を示すことによって、その影響が部品メーカーに及ぶという連鎖反応を生む点でも大きな特色を有しています。


部品メーカー自身の意識革命と自動車メーカー、部品メーカー一体となった文字通り一糸乱れぬ合理化の連携が実現するのです。

当時の乗用車工業

ポルシェがもしその申し出を受諾すれば、直ちに"ソ連邦国家設計家"の称号が与えられ、何か一つの仕事をするたびに彼の望みのままの報酬(白紙の小切手帳が与えられる予定だった)を受けとれることになっていました。


火の車のポルシェ設計事務所としては、ソビエトからの提案はまさにのどから手が出るくらい、願ってもない好条件でした。


・・・しかしポルシェは冷静に状況判断を行いました。


たしかにソビエトの工場建設は急ピッチで進められていましたが、かんじんの自動車工業は当時全く幼稚な段階にありました。


彼の腕を振う余地はなかったのです。


そのころ乗用車工業は、一国の総合的な工業力の指標として重要な意味をもつようになっていました。


しかしソビエトも当時の日本と同じく、軍事技術に過大に傾斜した産業構造をとっていましたが(航空機、軍艦、戦車、火砲が中心)、近代的工業国家としてのバランスのとれた成熟度は低かったのです。


もちろん中古車の数も少なかったのです。

"ポルシェが欲しい!"

「ソビエトは工業技術をマスターするすべを学ばなくてはならない。


それは国家再建の現在、あらゆるものを決定するからだ・・・


我々は100年も遅れている。


だが西欧の水準に10年で追いつかなければならない。


それが達成できないとき、それは我国の破滅を意味している・・・」


スターリンがポルシェに求めているのは(このとき両者が会見したかどうか記録は伝えていません)、まさに遅れた技術水準をいっきょに引き上げるため原動力として、最高のブレーンとして働いてもらうことでした。


当時はマツダ 中古車なんてない時代です。


ポルシェは人気のでるような自動車ばかりでなく、技術のあらゆる面に通暁していました。


そしてスターリンをも含めて、2つの大戦のはざまの時代、独裁者はもとより国家の指導者たちは、テクノロジーを不可能を可能としてくれる"魔法の杖"と考えたがったのです。


スターリンとしてはポルシェその人が欲しかったのです。


その強烈なパーソナリティと傑出した技術力が欲しかったのです。

ソビエトの国家設計家ポルシェ

ソビエト側は手厚く彼をもてなし、手紙の約束どおり何一つ隠そうとしなかったのです。


「科学技術に国境はない」という言葉はやがて死語になるわけですが・・・


当時ポルシェにとっていかなる国境もなかったのです。


いつも中古車情報をチェックしているような車好きの人なら、きっと彼のこのような性格による逸話もご存知でしょう。


キエフ、クルスク、ニジニノヴゴロド、オデッサと旅を重ね、彼は自動車工場、鋳造所、タービン、戦車、トラクター、航空機の工場を視察しました。


ロシア特有の豪華な宴会が毎日続きました。


ふと彼がウォッカは好きでないと言うと、翌日は彼の口にあったピルゼン・ビールが食卓にならんでいます。


空輸以外には考えられないのです。


ポルシェはその歓待ぶりに薄気味悪くなり、視察した各種の工場施設にも驚嘆しました。


しかしかなり長期間にわたったソビエト旅行中にも、ポルシェは彼らの真意がつかめず、いらいらしました。


やがてある工場でスターリンの大演説の抜粋が横断幕に書かれていましたが、それを翻訳してもらってはたと気がつきます。


好奇心の旺盛な人

ポルシェはおそらく農業用トラクターの特許でも買いに来たのだろうと考えましたが、2人の技術者は全く興味を示さず、話はなかなか本題に入らなかったのです。


おそらくポルシェやスタッフの人物の品定めを行っていたのでしょう・・・。


3回目の会見でようやく、彼らはソビエト政府からの公式文書をポルシェに手渡しました。


「我が政府は、貴殿に我国の国家再建の時期がはじまったことをお見せしたいと思います。


技術的進歩、動力化及び電気設備の充実が新生ソビエトの力により進められています。


無限の国土と無尽蔵の資源を持った我国の可能性を貴殿の目で判断していただきたいのです・・・。」


自動車開発や中古車情報検索システムを開発するような傑出した技術者であるからには、好奇心が旺盛でなくてはなりません。


ポルシェは大いに食指を動かし、よろこんでソビエト政府の招待を受けることにして、3週間後にソビエト旅行に出かけました。